チベットの大地を走り抜ける時、自分の身のちっぽけさを感じます。私一人、ここで死んだところで何が変わるのだろう。あまりにも小さな自分の存在に、大した意味が感じられなくなっていくのでした。
自分の存在は、自分ひとりで成り立っているのではない。
もしかしたら、周囲の存在があって初めて、自分であるのではないか。
もしも、周囲に何もなかったとしたら、自分は自分であり得るのか。
自分を自分として認識することができるのだろうか。
結局は、自分自身を含むもののありようなんて、本当のところ分かりようがないのかもしれません。
とりあえず、人は「こう」見えているから、それに対処しているだけなのです。
特に科学はその「対処」の代表格であると思いますが、多くの人にとって同じように見え、また同条件で同じ結果が発生するという再現性があるから、
重要視されているだけなんですね。全てを解明できる万能の理論ではない。
実際は、原因と結果の繰り返し。自分にも原因があり、周囲にも原因がある。その原因の相克の中で、今見えている世界がある。
ただ、それだけなんだと思います。
チベット仏教では、人は死んでも原因が解消されない限り、また同様の状況が生まれてくる(つまり生まれ変わる)と言います。
そこまで考えると混乱してしまい今の私にはよく分からないのですが、
なにやら、世の中というのは想像を絶する広がりを持っていて、その中で日々の生活を送る自分自身は、無明の中で生きる「井の中の蛙」なのかもしれません。(2012/01/19)
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